ブログを引っ越してみた

いままで使ってきたBloggerからはてなに引っ越してみた。まあきまぐれです。でも、思えば2年前にバリ島に飛び立つときに、友人達への報告用に立ち上げたブログ、ひとまずの役割を終えたと言えるのかもしれません。それを証拠に、4月に一時帰国してからブログの更新が著しく滞るようになりました。なので景気付けに引っ越してみたという次第です。

使い勝手次第で、また戻るかもしれません。読んでくれる人にはお手数かけてすみません。

 

以前のブログはこちら

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読みました。村上春樹訳のです。実はこの本、原著のほうですが、僕がはじめて読み通した洋書なのです。あれはニューヨークに行くとき、空港の書店で手に取り、あのときは旅の初めで気合が入っていたので、これを完読してやる、ということで買ったのでした。たぶん。

で、なにゃかんやで数ヶ月書けて読み通した覚えがあります。そして、ほとんど内容を覚えていなかったのですが、唯一覚えていたのが、主人公が最後、妹を遊園地の回転木馬に乗せてやるシーンです。でも僕の記憶ではなぜかブランコになっていました。

 

とまあ、いろいろ齟齬はあったのですが、読後感は不思議と一致しておりました。それなりに原著で読めていたようです。別に自慢じゃありません。あの雰囲気、読後感、それこそがこの本のいのちだと思ったという話をこれからしようかどうしようかというところです。

 

なんといっても泣けるシーンは、妹のシーンなのです。家出をしてどこか遠くへ行こうと決意した主人公が、最後の別れにと妹に会おうとします。妹の小学校の職員に伝言をたくし、学校が終わったら近所の美術館に来てほしいと伝えます。

 

かくして、妹はやってきました。大きなスーツケースを引きづりながら。妹は言います、わたしも一緒にいくわ、と。ねえ、いいでしょ?と。おいおい、そんな兄思いの妹なんて、いるのか?おもわず心のなかでツッコミたくなります。願望すぎるぞ。妄想が美しすぎるぞ、と。

 

僕は、キャッチャー・イン・ザ・ライは好きな小説の筆頭にあげますが、キャッチャー・イン・ザ・ライが好きだという人は嫌いです。

 

キャッチャー・イン・ザ・ライを好きな小説に挙げる人は、どうも自意識がめんどくさい奴に思えてならないからです。もちろん自分以外の人について言っています。自分と村上春樹は除外しようじゃないか。自分のブログだ、それくらいの権利はあるだろう。

 

姪が2歳になり、「2」という概念を覚えたようだ。何かが2つあるということがわかると、 「こえ(れ)、に、ある。に、ある」と騒ぐ。2という概念を知り、興奮しているのだ。何度も何度も確かめる。これは、2だろう?そうだろう? あれも2だろう?そうだろう? 2だ2だ!これが2なんだ! 発見の喜び、習得の喜び、伝わる喜びも入っているだろう。

 

それはつまり、言葉を覚えていくということでもある。たんなる呼び名ではない概念があるということを覚えていく過程。痛い、とか、少ない、とか、言い始めている。ヘレン・ケラーの喜びに通じるものがあるのだろう。

 

そうやって、学びの過程には歓喜があったのだ、とわかる。ひとつひとつが発見であり、それは歓びであり、興奮で快感なのだ。いいなあ。二歳児いいなあ、人生を楽しんでいるなあ。しみじみした。これからしばらく、興奮と歓喜の連続なのだ。

 

宮崎駿が引退すると聴いて、寂しいなと思う。純粋に、次回作も見たいなって思う。どちらかというと、風の谷のナウシカや天空のラピュタみたいなバリバリのファンタジーが見たいんだけど、別世界へ連れってって欲しいんだけど、風立ちぬを見て思った。ファンタジーじゃなくてもいいから、駿の作品やっぱ見たいわ、って。

 

なんだろう、そんなに大感動も大興奮もしなかったけど、見るべきものを見たぞって気にはなった。ちょっとあの映画についていろいろおしゃべりしたいぞってなってる。

 

なんだろうね。宮崎駿に何を期待しているのだろうか。いてくれてよかった。みたいな気持ちになるんだわ。引退記者会見を見て、なんだかすっきりしたいい顔してた。なんだかすっきりしちゃってさ、ってうらやましく思った。72歳で引退を惜しまれ、まだやりたいこともあるからそっちをやるのだと言う。それはやっぱり良い人生だよね。

 

しかし、最近シリアとか、きな臭くなって、俺が思うのはさ、世界を覆う言葉のうそ臭さについてだよね。

 

オバマ化学兵器は人道的に許せない、ミサイル攻撃も仕方なし、と言った。で、僕らはこう思うわけだ、アメリカの真の狙いは何? 池上さんに聴いてみよう!となるわけだ。

 

僕らは、日本の一般市民のくせして、アメリカ大統領の言葉を言葉通り受け取らないわけだ。あれは表向きはああ言ってるけど、ほんとは石油が、、とか、本当はロシアへの牽制の、、とか、裏の真意を読み取ろうとするわけだ。アメリカだけじゃなく、フランスの真意は、ロリアの真意は、とそれぞれ表向きの発言とは別の真意があるわけだ。

 

世界って難しいのな。大統領とかその国で一番偉い人が言う言葉を言葉通りとっちゃだめで、それが世界の「常識」なわけだ。オバマがこう言ったからそうだろうとか言ってると、お前何真に受けてるの、平和ボケか!って言われるわけだ。つまり、本音と建前の使い分けが世界のスタンダードですよ、ってことだね。

 

そういうの学校で習った?おれ習ってない。ちゃんと教えないと。国で一番えらい人の言葉は基本的に本音とちがう建前なんだから、真に受けないで真意を読み取らなくちゃだめだよ、という「常識」を教えないとね。まあ、大変な世の中だよ。日本の総理大臣だって例外ではないよね。

 

よく、日本人は本音と建前があるとか批判されたときあったけど、欧米だっていつも本音とタテマエだよね。もっと正々堂々と本音と建前をやってる。それが普通なんだっていう世の中で、子どもに何を教える?社会科で何を教える?

 

みたいなこともあって。でも一応、形の上では、総理大臣って国民の代表の中から更に選び出された、やっぱり偉い人なわけで、小学生に、あの人はえらいの?って聞かれたら、えらい人だよ、ってやっぱ言うのかな?それとも、ああ、うそばっかりついてる権力者だよとかいうのかな。それはそれで断言できないところもあるし、どうしようね。

 

まあ、わざわざ書くことでもないけど、世界がそういう風になってるって大人になってもしばらく気付かなかったし、もちろん、うそばっかりじゃないからややこしいんだけど、でもなんかこう、ビシっとしてないんだよね、世界って。